ちょうどさっき気づいたことがある。
それは「僕は発達障害者ではないか」ということだ。
これは薄々はなんとなく、ぼんやりとではあるが、そういうような気はしていたが、いざ実際に人間関係のトラブルに見舞われると、それは他の誰でもなくて、自分の問題であったのだと、はたと気づく。
ちなみに、それまでの自己認識で言えば「根暗なコミュ障」といった具合ではあった。
他人の気持ちがわからない。
そういった共感能力の欠如。
沸点の低さ。
ストレス耐性の低さ。
それ以外にも思い当たるふしはあるけれども、僕が立ち読みしたかぎりでは、まさにこれだ!と的を射たような兆候は見られないけれども、実際のところ、当てはまるところは多く、おそらくはそうなのだろうと思う。
発達障害は0か1かの世界ではないのだと言う。
虹のように連続性があって、結局のところ、色合いの濃淡なのだと思う。
スペクトラムということで、僕はおそらくは必ずしも完全なる発達障害というほどのことではないにせよ、明らかにスペクトラム上では濃度の濃いほうに位置しているのだという自覚がある。
周囲の人間を不快にさせたという自覚はないにせよ、不快にさせたという事実はあるのだと思う。
お詫び申し上げたい。
ちなみに、僕が沸点が低いポイントがいくつかあって、それは「優柔不断さ」「スピードの遅さ」「頭の回転の遅さ」「知識のなさ」「問題認識能力のなさ」「自分への批判」といったところだと自己認識している。
これらの課題を自己認識して、自己の感情に対峙するということが肝要ではないかと思う。
コミュニケーション障害の点に関しては、かねてより思うところはあった。
対人折衝において、その場の空気に合わせることはできても、それは自然体ではなく、無理矢理にである。
ということはつまり、それ自体がストレス要因であって、すなわち対人折衝という行為そのものが自らを苦しめることになる。
飲み会の席などは苦痛でしかない。
飲み会を好んでいく人間が多いと、色々な人に会って知った。
これは僕にとっては驚愕の事実であった。
僕の人生において、飲み会が苦痛以外の何物でもないという認識が世間一般では異なるのだということに気づいたわけだ。
気づいたからといって、気持ちが変わるわけでもなく、相変わらず苦痛に感じている。
だから予定されていた飲み会に参加しなくてもいいとわかった瞬間に、ある種のカタルシスを覚えた。
いわゆる、特別な解放感のようなものだ。
それは飲み会への不参加という日本社会における同調圧力に反する行為であって、参加者の皆様方をなにがしかの不快な気持ちにさせるのかもしれないのだけれども、実際、そう感じてしまうのだから、仕方がない。
そうやって、僕は対人関係が苦手であることを自らの感情によって気づかされるわけである。
翻ってみれば、このブログなどをして情報発信したりしている方々の多くは僕と同じような人種ではないか、と思ったりもする。
つまりは、世間一般の方々で言うところの「コミュニケーション」によって、アウトプット、ないしは情報発信という行動をとることで、ストレス発散なり、クリエイティブな活動の一助を担っているわけである。
逆に言えば、その点において、彼らはそこでアウトプットしているわけである。
その延長線上には、そこでわざわざインターネット上でテキストデータという文字に起こしてまで、公開する必要性はほとんどないわけだ。
エネルギーの発散がすでに行われているわけだから。
ということは、このようなブログで情報発信している方は「リアルなコミュニケーション」においてのエネルギー放出はしていないのだから、つまりは僕と同じ人種なのではないか、と思うのである。
文章を書くというのは大変にエネルギーの消耗する行為である。
それを何のモチベーションだかは存じ上げないが、わざわざインターネット上にアップロードするわけであるから、なかなかにエネルギーを使っているわけだ。
これこそまさに、コミュ障だか、根暗だか、発達障害だか、人間不信者だか、なにがしかのそういった要素をお持ちなのではないかと邪推してしまう。
お仲間ではないか。
僕はこうやってテキストの海に溺れているほうが、誰か他人との接触をはかるよりも、はるかに気が楽で、心地よいことは事実だ。